昭和47年1月18日 月次祭
                     中村良一


 人間氏子の上におかげを下さろうとする。これも、限りがないものです。また、限りなく、おかげを頂きたいと願うのは、人間氏子の心情でございましょう。にもかかわらず、限りないおかげが頂けない、というのは、どういう事であろうかと。本当に、限りないおかげを頂きたい。また神様も、限りなくおかげを下さろうと、これは節に思い続けてござるのが天地の親神様。そのおかげが、中絶致しましたり、または、意に任せなかったり、様々な難儀なこと、いわゆる、難儀な様相になって参りますなら、こら、いよいよ、私どもが、ここへ、分からせて貰うて。信心しておかげを受けてくれよと仰る、その自分の信心というものを、本気で、確かめる気にならなければいけないと思います。信心を、本当に確かなものに、確かめて行かなければいけません。
今日、午後の奉仕の時でした。もう三時半、後三十分で、四時の御祈念だという頃、高橋さんが、朝から御用を頂かれて、御用が一切りつきましたから、かえらせて頂いて、また、早く、今晩のお月次祭におかげを頂きますようにという事であった。なしか知らんけれども。今日、私は、初めて、あんな感じがしたんですけど。それこそ、かえすともないかえすともないという感じです。そっであんた、今から帰ってから、そすともう、五時、五時半になるだろう。そすともう、こちらへ直ぐ帰ってくる、何か、特別の用事があるのかねと言ったら、いいえ、別に特別の用事がある訳じゃないですけれども、ネクタイも吊ってこんなりませんし、洋服をチャット着てこにゃいけんからとこう。ネクタイは、私がつば貸そうたいち。もうとにかくそげん( ? )おりなさいち、私。そんなら、光男さんに電話かけてから、杉山さん、こっち来る時に、背広とネクタイやらを持って来て貰いましょう。それで、残りましょうと言うて、残っておられるうちにです。あぁあの事、この事と、また、いろんな御用を思いだされてから、色々御用をなさっておられた中に、今度、西脇殿の御造営に関しての、いろんな書類が、御本部に提出されなければなりません。その、御本部に提出させて貰う中に、そのどういう、この頃から出しましたけれども、理由が不足だと言うので、どうでも建てなければならないという理由を書いて、具体的な、また、新たな申請をするようにという事を言うて来たんです。
それで、まぁ、色々と、五年祭ですから、止むにやまれん、信者一同の願いが、どうでも五年の事業として、信者の真心を結集して、御造営に着手する。信者の、そういう願いであるという事を、理由の一つ。それから、マルショウの初めは会館と言うておったほどしでございますから。マルショウの方達が、お広前、または、共励殿を使いますと、もう本当にあの、ここ、お取次させて貰いますのに、とにかく、騒がしゅうて、どうにも出来んと言うて、マルショウの方を止めよという訳にはいかん、一つの勢いですから。どうでも、それには、場所がなからなければなりませんのでという理由。また、様々な教会集会なんかの、それに使う部屋が、ないからという、まぁ三つ四つの、そういう理由を作文しておられました。それで、高橋さんは、あちらへ、その作文しておられる。私は、四時の御祈念に入らせて頂き、そう致しましたらね、その事を、私、お願させて貰いよりましたら、お重箱に、お餅が一杯だけではなく、山盛りにこうしてある。だから、蓋がされないというお知らせを頂いた。餅といや、心持という事でしょう。心持という事は、まぁみんなの思いという事でしょう。または、例えて申しますとです。ははぁ、ここに、このような素晴らしい、もう、この一つの理由だけでも、本部が、それを認めなされなければ出来ないだろうというような事を、私は、感じつかせて頂いた。というのはです、今、朝の御祈念に、寒中修行中でもございますけれども、もう、このお広前が、一杯、座るところがないごたる。本当に、日曜日なんかは、座る場がないほどしに一杯。日々の、朝の御祈念ですら、これでございますから、今度出来ます西脇殿は、ここの延長であります。ですから、どうでも、ここへ西脇殿、このお広前の延長、これを一番初めに思い立つ時に、その事を、私、頂いておったんです。その事を、だから、秋永先生にも、いろんな事で、こういう事を思いたっておるがと言うけれどもなかなかお許しが出なかった。けれどもね、マルショウ会館とか、何とかというような事では、お許しは頂けなかった。けれども、このお広前の延長であるならば、という事で、お許し頂いたんですね、今度は。ただ、その事も、私、すっかり忘れておりました。ですから、確かに、今その、朝の御祈念にみなさん、参って見える方は、それを感じられるでしょう。朝の御祈念ですらが、もう一杯なのだ。ですから、これに、いろんな会合がある、大祭、いや記念祭という事になってきたら、いよいよ、お広前が手狭になったから、これは、どうにも出来ない理由で、そういう理由で、今度、西脇殿が造営になるのですという事だったら、もう高橋さん、これ一つで、理由は十分だねと言って、言うた事でした。それを、色々と、まぁ、こじつけた訳ではないけれども、理由をですね、書いとりましたけれども。それも、書かなければならんでしょうけれども。一番の理由は、お広前が手狭になったという事である。と言うほどしにです。ただ、日々、例えば、朝も早ようから、それこそ、詰めかけて見える方達で、ここが溢れる様にあるほどしの、皆さんの祈りというか、願いというものがです。煎じ詰めれば、やはり、限りないおかげに触れたいという事なのでありますでしょう。そのように、沢山の人が、合楽合楽と言うて、集まってくる、その一人一人がです。本当に、そういうおかげが頂けるならば頂こうと。それは、そこまで気が着いてない人も沢山ある。ただ、目先目先の病気が治りますように、この難儀から解放されますようにと。ただ、目先の難儀から、いわば、脱出したい。今の苦しい所から、逃れたいというような、逃避精神とでも言うかね。
今日も、ある方が、もう毎日毎日、本当に死んだ方がましち言う。あんまり沢山借金が出来ましてね。もう、それこそ、借金負うた方達に対してから、申し訳がない。それで、毎日、死ぬる事ばかりを考えておるという人が、今朝の御祈念に参って来よる。ですから、ここに、お話を頂いた後にです。一週間ばっかりでも、ここのお広前で、いうならば、居らせて頂く訳にはいかんでしょうか。と言うから、私は、金光様のご信心はね、そういう、例えば、難儀な思いをする時に、その中から、逃避するといった様な事ではありません。山の中になっとん籠って、借金取りが来るとを、一時ばっかり、その借金取りの声を聞かんですむならば、山の中にでも入り込みたい。ここで、長話を聞きながら、御祈念どもさせて頂きながら、ここに一週間ばっかりでも居らせて頂く訳は出来んだろうかと言うて、お話がございましたから、私が申しました。金光様のご信心は、そんなご信心じゃありません。逃避じゃなくて、その難儀な中にこそです、今朝からも、私が申しましたでしょう。味苦魅楽と言う事を申しましたでしょうが。その味苦と言うのは、苦労に苦労がある、その苦労と言うものの味わい分かる。味の素の味、味苦という。魅楽と言うのはです、楽な事に魅せられる。信心のないものでも、ほとんどがそうです。ほんなら、信心があっとっても、浅い間は、早う楽になりたい、早う楽になりたいと、人が楽をしよると、本当に、よだれを流すようにして、羨ましいと思う。そういう事ではない。信心とはね、例えば、苦労の中にです、現在持っておる、その難儀苦労の中にです。味わいを分からせて頂く。逃避ではない。その中にあるものを、本気で頂かせて頂こうというのが、お道の信心ですからね。とにかく、あすの朝から、また参ってらっしゃいと言うて、長う話したことです。ですから、それと同じような事をです。はぁっと一時、早うこの難儀から逃れたい逃れたいというような事では、おかげにならんのです。もう一切の事、人間関係であろうが、経済の問題であろうが、健康の問題であろうが、現在ふんまえておるというか、抱えておるその難儀と言うものの、本当の心というものを分からにゃいかん。難儀の心を分からせて貰う所から、神愛を感ずることが出来、その事に、いわゆる、味苦魅楽である。その苦労の味わいが分かってくる。そういう事に、専念させて頂く時です。とても、楽どんしようと思う心は生まれてこない。楽はさせて頂くものぞ。楽は神様が、嫌と言うてもさせて下さる楽でなからなければ、本当の極楽と言う事にはならんのだと、という訳なんです。どんなに、腹の立つような問題でありましてもです。私共の心、信心の心というものがです、その腹の立つような問題の中に、味わいがあるのだと。腹を立てるどんじゃない、本当に、お礼を申し上げなければならない様なことに、腹を立てておる事ばっかりなのだ。腹を立てる事なぞと、世の中にある筈は絶対にない。それを、腹を立てる。「腹立てば、心の鏡の曇ること。」愚痴を言えば、もう心の受けものは無くなる。不足を言や、もう限りないおかげも、もうそこでお終い。限りないおかげを、神様が下さろうるとする。また、私共も、限りなく頂けるものなら頂こうとこう思う、そこでです、私は信心を、いよいよ本気で、純粋に信心の稽古をさせて頂こうという事にならないと、そこに本気で取り組まないのです。
今日は、前講を幹喜三郎が努めておりました。お話を聞きながら、もう本当に感動致します。本当に、私は、ここで聞かせて頂きながら、涙がこぼれた。もう、兄弟一番、お話は下手です。本当にお話は下手ですけれども。言おうとしておる事、また言うておること、また自分が実際、それに取り組んでおること。それが、あまりにも純粋なのです。先日、親先生の御理解の中に、裏と表のある生活をしてはならぬと、信心のある者は。じゃない、裏と表の生活をするという事は、影日向があるという事は、こんな馬鹿らしい事はないと知れと言う御理解を頂いて、本当に、そうだなぁと実感したと言っております。そして、今日も御結界に奉仕をさせて頂くなら、その事をしきりと考えさせて頂いたと言うております。人間が、いや、信心させて頂く者が、純粋にです、本当に、影と日向のない心。いうならば、人が見ておろうが見ておるまいが、神様が見ておいででございます、神様が聞いておいででございます、神様が知っておいででございますと言う世界に、生き抜かせて頂くという事が信心なのだ。そういう信心にならせて頂いたら、どんなに有難いことになるだろうかと、親先生の御理解を頂いて思うた。そこで、そういう信心とは、どういう事であろうかと、一生懸命考えた、御結界に座って。御結界と言う所は、そういう所なんです。お参りしながら、じーっと、自分と言うものを見極める。自分と言うものが分かる。分かってくればくるほどに、御神意が深く分かるから、有難うなってくる。まだ、十七か八の、いうならば、少年がです。そこに、例えば、こう開眼が出来て行きよるという事。しかもそれを純粋にです、本当に頂こうとしておるという事。そして言うております。何事にも信心になれよという事を、一生懸命に努めるという事でありますから。ははぁ、僕は、裏と表の心でというような生活ではないという事を知ったと言うております。何をするにも一生懸命。僕は、後悔するという事が嫌いですと、二三日前の御祈念の後に言っておりました。ですから、毎日を、後悔のない一日じゃなからなならんと思うて、その事に、本気で取り組みますと言うておる。その事がです、その事が、裏と表のない生活をさせて頂いておる自分だ。してみると、なるほど自分は、最近、おかげを受けておるなと気付いたと言うておる。中学校、高校の時代はです。人に会うのが嫌いであった。お話をするのが、いよいよ、嫌であったのがです。この頃は、人に会うたら、自分の心境を語りたい、話を聞いて貰いたい。そういう気がする。この頃は、冗談の一つも言えるようになったというおかげを頂いておると言うております。もう本当にね、信心ちゃ、純粋さがなからにゃ駄目です。おかげば頂かんならんから、改まらにゃならん。おかげば頂かんならんから、こげんも努めにゃならん、そげんもせにゃならんと言うのじゃないのです。幹三郎が言う様に、本当に、裏と表のある心、いや、裏と表のあるような生活では、実際に馬鹿らしいんだと言うことなんです。そげんなれたら、さぞ良かろうとこう。そして、自分が最近、精進させて頂いておる事はですたい。これは、そのまま、なるほど、裏と表のない生活であるなという事。そういう精進をさせて頂いておるうちに、自分の、言うなら、性格そのものが変わって行っておるおかげを受けておるという事をです。
もうそれこそ、ぼつぼつとではありますけれども、皆さんに聞いて頂いておる。それを聞かせて頂いて思いました。信心とは、もうこれだなと。このような純粋さを持ってね。純粋に、本当に教えに取り組む以外はないのだと。これを貰わんならんけん、願わんならんけんと言うのではなくてです。もう本当に、例えばね、腹を立てては馬鹿らしか。不平不足を言うちゃならんじゃなくて、もう不平不足を言うちゃ馬鹿らしかと分かる。それが、常日頃、一生懸命に努めておるという事によってです。自分が、それにならされておるという事に気が着いたというのであります。そこから、私は思うて、なるほど、高度な信心を、皆さんなさっておられますけれども。そういう、純粋だというものが、私は、低いように思う。条件がある。我情がある。我欲がある。それこそ、このお広前が、朝の御祈念ですら、もう、こぼれるほどしにあるのだから。しかも、こぼれるほどしに、皆が集まってきて、賑っておる、このお広前がです。その一人一人の信心がです、せっかく、このような御教えを頂いておるのでございますから。このような御教えが、信心生活の上に打ち立てられなかったら馬鹿らしいという、私は、純粋さを持って、信心の稽古をさせて頂くものだと思わせて貰う。そこから、自分も気が着かなかった間にです、自分の生活、そのものまでが変わっておるというのである。
今朝からの御理解の中にも聞いて頂いたのですけれども。今朝、起きりがけに、現わすという事を頂いた。お互いが、信心をさせて頂いて、なにを現わすかと。という事はね、お道の信心では、神様を現わすという事なんです。なるほど、天地の親神様生神金光大神のお取次を頂いて、天地の親神様の信心をさせてもらや、ああいうおかげが受けられるというおかげ。なるほど、初めの間は、親子ぶっすりがっすり言いござったが、信心されるようになったら、あのように円満になられた。あんなに難儀をしござったが、この頃は、都合がよかごたる。なるほど、金光様のご信心を初めなさったから。これが現わすのであります。ですから、言うならば、おかげを現わすという事なんです。いうならば、自分自身が助かるという事。自分自身がおかげを受けるという事なんです。私が助かれば、いわば、親を現わした事になるのです。合楽教会がおかげを頂けば、親教会である三井教会を現わした事になるのです。合楽教会が、あれだけのゴヒレイが立つのは、よっぽど親先生が偉いじゃろう。よっぽど、そういうおかげの元が、親教会にあったじゃろうという事になるのです。また、事実そうなんです。私が、おかげを頂けば、はぁ両親が、やはり素晴らしい教育をしなさったじゃろうという訳になる訳です。親を現わすことになる。
金光様のご信心とは、そういう、神を現わすという事。あれが、信心なしよるばってん、碌なこつはせんというような事では、だから、反対の事になる訳です。それこそ、親の名まで、それこそ、こんこんさんばち言うちから、金光様でも何でも、漬物のごと思うとる。金光様の、やっぱり値打ちを下げてしまう。あんた段、こんこんさんに参って、何の御利益があるのち。私家ん、漬物さんの方が、よっぽど、利かっしゃるばのち言うた人があったげな。ほら私は、腹ん立って腹ん立ってたまらじゃったち。けれども、それはええ、結局、自分の信心が至らんから、そういうふうに、神様を、そういうふうにお漬物様にされてしもうとるような訳じゃないでしょうか。信心とは、とにかく、神を現わすという事。神を現わすという事は、本当に、おかげを受けるという事。そこでです、ほんなら、健康の上にだって、人間関係の上にだってです。本当にです、そこんところのおかげを頂かなければね。
今日あの、むつ屋の信司さんが、昼、お参りして見えてからです。もう先生、いっちょ、お伺いせにゃならん。なんですかち言うたら、その、妹さんが、綾香さんち言う。もうこの頃、朝参りして、朝の御祈念に参るとは良いですばってんから、もう帰っては寝てから、もうそれこそやっぱ、腹ん立ったげな。朝の御祈念に参って何なろうかち、やっぱ、言おうごたる訳です。そるけん、先生、言うたっちゃよかでっしょうかち。じょうたんのごつ、もう、そげなこっどん言うたっちゃ、絶対ならんばいち。それがね、例えば、朝参りをしてからという事だから、確かに言うちゃならんよと。言いどもしなさんなと。それこそ、起きてきたら、ニコニコとしてから、まぁ向こうが機嫌のよか時に、あれを頼む、これをお願いすると言うぐらいならよかばってん。お前はそん、朝参りをしてから、昼寝るなら何になるかち言うような事を言うちゃならんよと。私はね、そういう修行が要るんです、人間関係のおかげを頂くためには。だからね、おかげを頂くという事は、やっぱりもう、腹ん立って、こうして言おうごたるばってん、それを言わんで、金光様根光様と、言わんで治めれるだけの信心がなされなければ出来んのです。だから、そんくらいな辛抱も出来んような事では、おかげは頂かれん。神様を現わすという事は出来ません。何時まっでん、そこだけに引っかかって、何時まっでん、お互いが、ぐーぐいうて堪えちから、その、いよいよの時に爆発して、兄弟喧嘩という事は、結果にまでなる訳なんです。これも、人間関係だけじゃありません。もう一切がそうです。
そこでね、私が、今朝から、起きがけに頂きました、その現わすという事はです。その現わす内容という事が、どういう事でなからなければならないかと。なるほど、あちらは、家庭が円満になりなさった。信心してござったから、なるほど、経済の上にも恵まれるようになられた。一切が、おかげになられた。人が気が着くほどしのおかげを頂くため。そういうおかげを現わすためにはです。ただ、ぐーぐ言うて辛抱するとか、堪えるとか言うとじゃなくて、その心の状態というものが現わすでなからなければならない。あらというのは、新しいという字です。新玉のというでしょう、正月の事を。新玉のあらです、新です。和すという事は、平和のの和です。そういう字で頂いております。神を現わすという事は、そういう心の状態にならなければいけんのです。そこで、例えば、言わんですむ。いうなら、辛抱も楽しゅう出来るという事になる訳です。新和すのです。あらという、新しく和すると書いてある。そして、最後にひらがなのす。新和す。新和す、神を新和すという事は、そういう状態にならなければ、本当に、現れては下さらんのです。本当のおかげにはなって来ないのです。その現わすという、その新しいというのが、更と言うことなんです。日に日に更にというのです。その、だから、更な心を、まず求めなければならない。その更な心を求めるということにです。純粋な信心がなからなければ、それを求める事すら、よう致しません。和する心などは、なおさらのこと。和賀心の和とは、どういうことなのか。和らぎ喜ぶということは、どういうことなのかと、純粋に、それを求める。そして、今日、幹三郎が言ったのじゃないけれども。裏もなければ表も無いという生活を、しかも、一生懸命に行じておるということ。その一生懸命に行じておる事は、決して難しい事ではないと、幹三郎は言うております。信心させて頂く者が、裏表のあるような生活ではいかん。言うておる事と、行うておる事が違う様なこっじゃいかん。そういう精進をさせて貰う所からです。心の中に、期せずして頂けるのは、新の心であり、和の心である。更な心であり、和らぐ心が、生れてくる。そういう心で、神様に打ち向かうという。それを、今朝からは、私、さっきから、秋永先生が、今朝の御理解を頂いて、本当に素晴らしい。こういう表現というのが、私は、今朝から何か、あの流行歌の文句のところを、少しばっかり申しましたね。格子戸を、くぐり抜けという奴。そのくらいは調べとる、こっちは。ばってんその、格子戸をくぐり抜けという、その心がね、しかもその、初々しいという、その心がね、もう信心の、いわば、道を進めるというか、信心の稽古をさせて頂く者の、一番大切な所だと、今朝から説かれましたが、何と素晴らしい表現でしょうかねというて、秋永先生が言うておりました。そういう心なんです。ここに通うてくると言うても、おかげを貰わんなんけんて言うのじゃなくて、本当に、今日一日、おかげを頂いたお礼を申し上げるために、例えば、お参りがある。普通、お参りが出来んけれども、日頃頂いておるおかげを、お礼申し上げさせて貰わんならん。今日の月次祭には、そのお礼にお参りさせて貰わなければおられないという心が、初々しいのである。それこそ、格子戸をくぐり抜けであります。そういう心の状態を求めての信心でなからなければならないという事。ですから、その求める心がね、根が純粋でなからなければならない。純粋なものだなからな、おかげば頂かんならんけん、そうしようと言うのではない。
ここには信心の稽古に来るところ、そういう稽古を純粋な心で受けて帰る。そして、じっと自分の心の中にです。静かに、自分を思わせて頂く様な時間を頂いて、改まらせて貰う所は改まらせて貰い。足りないところは、そこに精進させて貰うという生活させて頂いておるうちに、いつの間にか、あげんも腹の立ちよった私が、腹が立たん様になり。自分の欠陥であるというものが、いつの間にか、補われておる。人にはものが言えず、話す事が嫌だという、私の性格が、人に会うたら、何か自分の嬉しい有難いことを、聞いて貰わなければおられないような衝動が、幹三郎の心の中に起きておる。たまには、最近、冗談の一つも出るようになったという自分が嬉しい。信心とは、何と有難い、嬉しい事であろうかと言うのであります。そういう心にです。いわゆる、神様を現わすところのおかげです。家庭は円満になって行くだろう。経済も豊かになって行くだろう。病気は癒えて行くに違いはないという信心が、おかげが頂けれる。しかも、そのおかげが、限りがない。限りないほどに、恵まれておるところの、そのおかげを、私どもが、限りなく頂き止めて行くという事が、神様を、いよいよもって、現わして行くという事になるのです。それを、これだけでよかけん、これを下さい、あれを下さいてんち、おかげの選り食い的な信心からはね。そういうものは生まれて参りません。信心の稽古は、何というても、純粋の度の高い信心を目指さなきゃいかん。今朝、ただ今、幹三郎の話を聞きながら、なるほど信心には、この純粋さが要るんだんなと思いました。みなさん、純粋に求めてお出でられなければいけません。いよいよ、寒中修行も、日を追うに従って、段々、熱烈を加えてきております。みなさん、いろんな事情でお参り出来ない方も沢山ありましょうけれども。出来んといや、いつまでたっても出来ません。そこに、何とか工夫をして、二日でも良い、三日でも良い、一週間でも良い。そういう、合楽と一緒に、動かして頂いておる信心。合楽の、いわば、私どもがならせて頂いておる、いうならば、徳の車と言うのがあるなら。その徳の車に乗り遅れてはならない。そんなに、私は思います。
今日、秋永先生が、言うておられましたが。寒中修行が終わりました。六日の日には、平田繁吉氏のおいでを頂くことを、この頃、企画で決まっておりましたが、ああいう、お忙しい方ですから、どんな事であるかと思うておりましたら、先日から、その日御相談が出来た。しかも、先生、とっても、ちょいと喜びなさったちこう言う。喜びなさるともなかろうばってん、私は、あながち、本当にそうだろうと。合楽の、いわば、人達がです。例えば、私ぐらいな者の話を聞いて下さるという事は有難い。そういう、意欲に燃えておられる合楽の人達に会いたい。そういう気持ちが、まぁ、繁吉氏を、いよいよ、有難い。当日、お話が頂けれる事になると思うのです。ですから、やはり、ただ、その話を聞くだけではなくて、やはり、寒中修行の一つの雰囲気と言うか。その有難いものを、例え、三日でも四日でも、皆さん、身につけてお出でられるという事。それは出来んと言えばそれまでです。ですから、工夫をして、何とか、いわゆる、そういう修行に合わせて頂くおかげを頂いて貰いたいと思うのでございます。どうぞ。